『津波災害 減災社会を築く』(岩波新書/河田惠昭著)という恐ろしい本をまもなく読みおえる。「恐ろしい」というのは、べつにこの本がことさら恐怖心をあおるような書き方をしている、とか、そういうことではなく、「このままでは・・・」と示されている最悪の事態が、まさに現実になってしまっている、という恐ろしさだ(去年の12月に刊行されたばかり)。こんなに愕然としながら読書をすることもそうない、と思いながらページをめくっている。
1855年に大阪で建立された『大地震両川口津浪記』という石碑には、津波で大きな被害にあった当時の住民が、避難にさいして祖先の言い伝えを生かせなかったために悔しい思いをし、将来必ずやってくる地震に備え子孫にそのことを伝える、「この石碑の文字がいつも読めるように、毎年この石碑の文字に墨を入れよ」というようなことが書いてあるという。いまでも、毎年かならず墨を入れているそうだ。
地震とは関係のない読書もしたいし、じっさい読んでもいるけれど、やはりいま読んでおきたい本も多い。吉村昭『三陸海岸大津波』(中公文庫)は明治に2万人以上の死者を出した津波の記録だし、同居人が今回の地震の前から大量の付箋を貼りながら読んでいたのは阪神大震災についての『記憶の街 震災のあとに』(みすず書房/佐々木美代子著)だった。
被害にあわれた人々の映像や、無惨な街のようすをテレビや新聞などで見て、どんなことができるだろうとおもう。だけど、その被害のようすだけでなく、ついこの間までの、平穏なその街のすがた、人々の暮らしを、なにかしらのかたちで自分のなかに取り込むことも大事だとおもう。想像力の下地となるようなものを、なるべく広くとりたいとおもう。でもそんなふうにおもってたとえば東北の観光ガイドを眺めると痛ましさはより強くなるし、付録でついてきた大判の地図には、ある種当然のように原子力発電所の所在は印されていなかったりするのだ。
私の郷里は中越地震で被災(私は在京)したが、今回の地震はちょっともう比べられるものではないだろう。それでも、そのあと現地で聞いた多くの話を、いろいろと思い出している。それも想像力の下地になるのではないかとおもう。たとえ起きている事態がどんなに想像を超えてしまっているようなものだとしても。
地震と関係のない読書をしていても、胸をしめつけられる思いになることは本当に多い。桂川潤『本は物である』(新曜社)は実におもしろい本だったけれど、著者が装丁を手がけた本の中にはカメラマンから豚飼いになったという方が書いた『フォルテシモな豚飼い』(西田書店/杉田徹著)があり、その豚牧場は宮城県の志津川にあるという。志津川は今では南三陸町に含まれる。「山深く」にある、という記述だけがたよりのような気持ちで、杉田さん!と祈る。
追記:ツイッター等で杉田さんご家族の無事は確認されたようです。よかった。
でも、「
あいおい古本まつり」はやります。でも、というより、だからこそ、でしょうか。