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「仏の彦次郎」のみた文壇。

 田中小実昌さんは、じぶんの小説の題名には無関心だったそうだ。あるとき、「無題」という小説をもらった編集部は、それではこまると、べつの題名をつけた。それが「浪曲師朝日丸の話」なのだという。もし「無題」のままだったら、直木賞をとれただろうか。
 
 『文壇うたかた物語』(筑摩書房/大村彦次郎著)
を読んだ。うえのエピソードのような、興味ふかいはなしばかり。講談社で『小説現代』『群像』といった雑誌の編集長をつとめた著者が、みずからの経験をからめてつづった、ほんとうにおもしろい、文壇の物語だ。ある地方紙の日曜版で連載されたものだという。日曜がまちきれない読者もいただろうな。

 おもに、『小説現代』にかかわった作家・小説がとりあげられている。その雑誌の性質から、中間小説的なものがおおいということになる。そういえば、「中間小説」というのは、さいきんでもつかう語なのかな。「純文学の極北」みたいな小説を読めない、ぼくのような読者には、いわゆる中間小説は、もっともなじみやすいものだが。
 
 この本のなかで、もっとも印象的な作家のひとりに、野坂昭如さんがいる。野坂さんというのは、ぼくがいままでに読んだ、ほかの編集者たちの本でも、印象的にえがかれていることがおおい気がする。
 大村さんは、野坂さんのイメージとして、「いかがわしさ」と「うしろめたさ」をあげている。もちろん、いかがわしいということは、作家としてはマイナスでのいみではない。
 
 作家たちのエピソードもいいのだが、編集者としての経験からの
 「文壇史は、作品の誤読の累積である。たとえ名伯楽などと自他ともに任ずる編集者でも、ながい編集生活の間には、ひとつやふたつの決定的な、読み違いをした、心のうずきをもっているはずにちがいない。」
というような記述には、編集者というもののたいへんさを感じずにはいられない。その判断が、もしかしたら、ひとりの作家を、ダメにしてしまうかもしれないのだから。名編集者といわれた大村さんには、どんな「心のうずき」があるのだろうか。

 コミさんの「浪曲師朝日丸の話」は、さいきん河出文庫にはいった
 『香具師の旅』
で、読むことができるよ。  
by taikutuotoko | 2004-08-09 01:49 | 本・雑誌・新聞・書店


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