『東京散歩 昭和幻想』(知恵の森文庫/小林信彦著)
を読んだ。今月の新刊だが、『日本人は笑わない』(新潮文庫)の改題である。
エッセイあり、時評あり、書評(解説)あり、日記調のものあり、自作についてのアレコレあり、とにかく盛り沢山の内容で、ある程度の年齢いってからの小林信彦、の入門書としてサイテキなのではないか、と再認識した。たぶん、五、六回目だが、まったくアキない。
若いころの小林信彦、については、ちくま文庫の『コラム~』シリーズ(の、とくに古いやつ)を読むのがヨイのだけど、品切れ。古本屋でさがしましょう。それらを読んでから
『日本の喜劇人』(新潮文庫)
にいった方が、ぼくはイイと思う。読書エッセイが、いくつか文庫で入手可能なので、それから入るのも、愉しいハズだ。小説はそれからでもかまわない。
(と、これから小林信彦を読んでみようかな、というひとにはアドバイス)
遅れてきた読者、としては、小林さんの気むずかしさ(という粗い表現ではマズイのだが、メンドウなので簡単にそう言っておくけど)を表面的にマネするのがいちばんよくない。まぁ、オッチョコチョイな読み手でなければ、大丈夫だと思うが。
気むずかしさの一方で、永井荷風の身長を説明するのにトートツにプロ野球の若田部投手の名をもちだしたりするトコロなんざ、地味だがこのひとらしいオカシサがある。こんな地味なトコロを持ち出さないでも、そうとうにおもしろい本なのです。
さて、本書のなかで(というより、小林さんの本で)くりかえし述べられるテーマは、「昭和モダニズムと色川武大」という文章に、よくあらわれている。
〈つまり、こういうこと(芸がわかるということ)を切りすてることによって、〈日本の戦後〉は〈発展〉し、経済大国とやらになったのである。〉
〈色川用語でいう〈街の中の雑物=遊び〉こそ、真の文化というものである。文化とは書店やらビデオ家の棚にならんでいるものではない。ごく少数の人の記憶の中だけにあるものだと、ぼくは考えている。〉
このように、〈ごく少数の人の記憶の中〉と言われてしまえば、もうどうしようもない、という面もある。若いころの小林さんのばあい、この〈ごく少数〉が、もうすこし広がりがあり、闘争的であったように思われるが(そのための「夢の砦」であった)。
文化の、象徴的なものとしての〈笑い〉と、〈町〉=東京。自らの「根源的なもの」について語っている「東京散歩 昭和幻想Ⅱ」の中で、〈一つの文化を生きてしまった〉と表現される感慨は、その終わりを、痛ましいカタチで見せつけられているのが、現在の社会である、というものにもつながる。
そういうわけで、げんざいの小林さんの書くものに違和感を持つ、というひとは、ぼくのまわりにもいるのであるが、まーそんなことをいっているとモッタイナイヨ、というのが、ぼくの感想だ。小林さんはそういうひとで、また、ショーガナイものはしょうがないのだから、と、ヒジョーに能天気に愉しんでみるのも、乱暴だが、ひとつの手なのだ。
あぁ、なんてイイカゲンなファンなのでしょう、ぼくってやつは。