『見た芝居・読んだ本』(文春文庫/戸板康二著)
を読んだ。タイトルどおり、「芝居」と「本」についての文章がおさめられている。
歌舞伎でもなんでも、芝居っていうのにはまったく無知なこともあり、戸板さんの本を読んだことはなかった。でも、この本は「読んだ本」、とくれば守備範囲だ。これを機会に、と手にした一冊。
戸板さんについては
日用帳がくわしいみたい。
前半の〈芝居〉の方は、どうしても、知識がないためにじゅうぶんにはその魅力を味わうことができたとはいえないけれど、文章はじつにここちよい。
芝居のはなしといっても、本とかかわりあいのあるものが収められているようで、「山本有三の芝居」のなかで、山本有三の随筆にあった六代目菊五郎のエピソードを紹介しているが、なんともおかしい。
山本有三の書いた「坂崎和泉守」初演の本読みで
〈黙って聴いていた六代目が、「私をモデルにしたのじゃないか」といい、しまいには「出羽守はあっし(私)です」といいだしたという。〉
もう出羽守になりきった、というか「出羽守はあっし」になってしまった六代目は、本を無視して(なにせ本人なのだから)、演じはじめる。
そして
〈また大詰めでも切腹の支度をすると書いてあるのに、六代目はサッサと腹に刀をつき立ててしまった。事情を聞けば「私は一刻も早く切腹したかった」といったそうである。〉
いま引用したように、戸板さんは、読んだ本のなかから「ちょっといい話」をひろってくるのが好きなようで、じぶんの文章への盛り込み方が、またうまいのだ。〈本〉についての随筆、書評、解説などが収められている中盤以降で、それをじっくり堪能できる。書評がそのまま、なんとも味のある読み物になっている。
「随筆のたのしみ」では、内田百閒と杉村楚人冠の文章の魅力について述べたあと
〈百閒と楚人冠の随筆を考えていて、もうひとついえるのは、書いている者の得意そうな、いわゆるしたり顔を、読者は喜ばないということで、粗忽、かんちがい、錯覚というふうな経験を率直に、いい文章で書いているのを読む時、人はぞくぞくするのである。〉
〈しかし、これは自分について書く場合に限るので、他人のミスを笑ったりすると、てきめんに読者は白けるようである。〉
と戸板さんはいう。
戸板さんの書くものも、まったく「したり顔」をしていない。
〈随筆のたのしさは、もうひとつ、それを書いている筆者自身の人間の味が、正直に出ることだろう。〉
という戸板さんの人間の味が、〈芝居〉と〈本〉のたのしみといっしょに味わえる。いやぁ、この本はおいしいよ。
そのほか
『みんな夢の中 続マイ・ラスト・ソング』(文春文庫/久世光彦著)
も読んだ。