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片岡さんの「英語」と「日本語」。

 ここに書くことは、先に書いた『片岡さんの「アメリカ」』のつづきだ。
 『日本語の外へ』(角川文庫/片岡義男著)
の、第二部について、ここでは書く。

 第二部は、「日本語」だ。これは
 「世界とは母国語の外のこと」
 「母国語の性能が浪費される日々」
 「ペシミズムを越えようとしていいのか」
におおきくわけられている。

 なかでも、「世界とは母国語の外のこと」がとても興味ふかい。この本のなかで、もっともおもしろかったところだ。三〇八~三八八ページ。とくに、英語に興味のあるひとは、ここだけを読むといい。

 ここで語られるのは、おもに、日本人の英語だ。それは、おおくのばあいが「頭のなかが日本語のままの英語」であり、「薄い皮だけがかろうじて英語」であるという、日本人の英語だ。流暢にしゃべれて、正確な発音で、形式的な文法にそっているということ、むずかしい言い回しをつかえるということが、英語でしゃべるということではないということが、ここで述べられている。
 たとえば、文法が、たんなる言葉の配列ではなくて、英語をつかう上での「普遍的なルール」であるということが、理解されていないということなど、だ。

 片岡さんは、通商問題について議論するためにアメリカのTV番組に出ていた公的立場の日本人が使った英語が、英語の正用法に則っていないことを指摘する。

 「正用法とは、たとえば、主語のとりかただ。主語を立てて語り始めたなら、そこには論理への責任がともなう。主語はその文章ぜんたいにとっての論理の出発点であり、責任の帰属点でもある。主語は動詞を特定する。動詞はアクションだ。アクションとは責任のことだ。動詞は前へ前へとアクションを運んでいき、最終的には主語を責任と引き合わせる。いったん主語を選んだなら、それにふさわしい動詞の働きによって、論理的な結末へたどり着かなくてはいけない。そうなって初めてセンテンスはセンテンスとして独立し、次のセンテンスを引き出す。いくつものセンテンスはそのようにしてつながり、重なり、論理を形成していく。」

 ながながと引用したが、つまりは「論理を形成していく」ということにおさまっていく。そしてそれが、これまで日本人の苦手とすることであったことは、常識的な認識といっていいだろう。ことばを(ルールにもとづいて)かさねて、論理を形づくることを苦手とする日本人の英語が、「頭のなかが日本語のままの英語」となってしまうということは、しぜんなことかもしれない。

 「彼ひとりに限定することなく、彼のような人が英語で語っていくのを聞いていて、いたたまれなくなるほどのきまり悪さを覚える理由は、さらにいくつもある。そのなかで最大のものは、センテンスのなかばあたりで主語を忘れてしまっている気配がある、という恐るべき事実だ。」
 「主語を忘れているからには動詞も彼らは忘れている。センテンスが終わるまで、主語を拘束し続けるのが動詞であるはずなのに、彼らはこれも忘れてしまう。」
  「動詞とは英語そのものだ。目的語をともなって、思考の推進力の発生源となるのが、動詞だ。」

 このように、論理という背骨がとおっている英語に対して、日本語は、どのような性質をもっているか。
 「日本語は単文が並列されていく構造を持っている。単文が横につらなるだけで、立体的に層を作っていかない。」
と、片岡さんは書いている。もちろん、日本語がその能力を欠いているというわけではないだろうが、うなづかざるをえない指摘だ。

 ながくなってしまったので、ほんの一部しか紹介していないが、おわりにして、すこし考えたことを書いてみる。国際的に通用するためには英語が必要だ、いや、日本語をしっかりつかえるようになることが重要だ、という議論がある。もちろん、英語がつかえたほうがいいし、しっかりした日本語を身につけることは大事だ。でも、もっと大切なのは、論理的に、しっかりと伝えるべきことを相手に伝わるようにコミュニケーションできるか、ということではないか。それは思考的な訓練こそが、もっとも必要だということだ。とくに議論や交渉においては。

 きょう買ったのは、豊島区は要町のブックオフで、一〇五円棚から
 『うその学校』(筑摩書房/池内恵・松山巖・高岸昇著)
 『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』(光文社・知恵の森文庫/岡本太郎著)
 『紙のプールで泳ぐ』(新潮文庫/片岡義男著)
の三冊、三一五円だったけど、一五〇円分はポイントのサービス券でひいてもらった。
by taikutuotoko | 2004-07-13 23:50 | 本・雑誌・新聞・書店


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