開高健も聴きたい講義。

 『教授のオペラグラス ニッポンと西洋』(集英社文庫/篠沢秀夫著)
を読んだ。『Pr.シノザワの西洋のなくなる日』(一九八〇年刊)を文庫化にあたり改題、八七年刊。
 
 篠沢教授というと、巨泉の『クイズ・ダービー』のイメージだが、本業は仏文学者。フランス文学と聞くだけで退避体勢をとるぼくにはよくわからないが、学者としての篠沢教授もそうとうなものらしい。

 谷沢永一の解説によると、篠沢教授の講義録(『篠沢フランス文学講義』)を読んだ開高健は
 〈「これを読んでいてな、私が年をとって、もう何も書けなくなり、何もできなくなった場合、もしもこの人の講義がまだ続いているならば、教室へ行って聴きたいという気が起きたな」。〉
と〈しみじみと〉つぶやいたそうだ。ただし、声はデカかった。

 やさしいことばで書かれているので、ひじょうに読みやすく、おもしろい本だ。(終盤の女性論のところには「どうかな?」という感じもしたが、らんぼうなものではない。)

 〈イデオロギーは、いわば個人を超越した概念である。共産主義とか、右翼思想とか、個人がそれを信ずる、信じないは関係なく、すでに客観的に存在する政治思想系を指す。
 これに対しイデオロジーは、政治のみならず、社会、人間一般に関する一つの考え方ということで、これは人間だれしも持っているものだ。あなたの恋愛観も一つのイデオロジー、僕の人生観も一つのイデオロジーである。〉

 上の説明は、いちおうぼくでもわかっているような内容であるが、べつのところに出てくるこういう文章を読むと、篠沢教授の語り口の妙味がわかるかもしれない。

 〈マルクスというあのユダヤ人のイデオロジーが、世界を動かすイデオロギーに変わっていく瞬間があった。そのとき、みんなが自分自身を超越してゆく。磁石に飛びつくように、スッとそれに取り込まれてゆく。そのような瞬間に、各人のイデオロジーがさまざまな偏差を示す。そこが文学の始まるところで、ひじょうに面白いのだけれど、これはまあ別の話だ。〉

 「志賀直哉―もっとも早い時期での西洋化三代目」
などがとくに興味ふかかったが
 「三島由紀夫と「軍国の春」」
での、学生時代に書いた、三島の『潮騒』への批評が、のちに“文体学”を考え出すきっかけとなった、というところも、おもしろかった。
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by taikutuotoko | 2004-12-29 11:45 | 本・雑誌・新聞・書店


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