『恥ずかしい読書』(ポプラ社/永江朗著)
を読んだ。出たばかりの新刊。
といっても、
ポプラビーチに永江さんが連載している「正しい読書、異常な読書」が単行本になったものだから、(ぼくは)ネット上でいちど読んであるわけだし、いまでもネット上でバックナンバーを読むこともできる。わざわざ単行本を買うかどうかは、本というカタチに一三〇〇円+税を払うかどうか、ということになる。ま、すこしオマケがあるけれどね。
ポプラビーチ(つまりネット上)で読むとしても、あまりゴチャッとはしていないから、読みやすい。文章もやさしいから、こまることはないだろう。何が書いてあるかわかれば、それでいいというひとは、この本を買う必要はないね。
でも、本として手元に置いておきたい。好きなときに好きな場所で読みたい。そういうひと(ぼく)が買う、ということになる。
こういうことは、インターネットなどの普及した現在では、どんどん増えていくだろうとおもわれる。そうなると、「本」というものの性格は、今とはちょっと変わってくるはずだ。すでに、一部では変わりはじめている。
欲しい(読みたい)文章があるばあい、いままでは、「本」(あるいは雑誌)というカタチで、その文章に接してきたわけだ。それが、インターネット・電子ブックなどの出現で、多様化した。それでもなお「本」にこだわるならば、「本」についてもっと考えないといけない、ということになるだろう。
この本の帯には、なぜ「本」でなければならないか、について、ひとつの答えになりそうなことが書いてある。
〈本は、いかようにも読めるのです。〉
そのとおり。いかようにも読めるから、ぼくはこの単行本を買ったんだ。